11月の予定にもありますように、平成7年11月30日(日)大本山増上寺光摂殿(東京都港区芝公園四丁目)にて「昭和百年記念 納札大會」が開催されます。
納札(千社札)とは
納札(千社札)の始まりは、江戸時代以前の観音信仰における参拝奉納の(納札ともいう)と言われています。当初は木の札に自分の名前や屋号、住所を手書きで記し参拝時に山門やお堂の柱に釘で打付けて参拝の記念としていたようです。
江戸時代になり、紙漉きの技術向上で紙文化が発達し、木版刷りで量産が可能になり、持ち運びの観点からも紙の千社札が多用され、山門やお堂の柱に糊で張り付けるようになりました。千社札を墨一色刷りにするのは、張り付けた札が永い年月をかけ紙が風化し、墨の防腐効果により柱等に墨文字だけが残る「抜け」を期待し神仏との結縁を願ったものでした。
江戸庶民の信仰と千社札(題名札・貼り札)
江戸時代、稲荷信仰は庶民にとって非常に身近な存在でした。五穀豊穣、商売繁盛や火伏せ、病気平癒など様々なご利益を求める個人祈願の対象となり、さらには異常気候による飢饉や疫病の流行により、多数の稲荷社が分社として祀られて、農耕の神・商業の神、さらには芝居の神としても信仰され、人々の生活に深く浸透していました。
後に様々な神社仏閣に参拝するようになり、その参拝を「千社参り」と呼ぶようになりました。お伊勢参りや大山詣、成田詣、熊野詣、富士詣など様々な場所への参拝が大ブームでした。千社札も庶民に広まり、神社仏閣に詣でた際、山門やお堂に千社札(題名札・貼り札とも言う)を貼って帰りました。
千社札(色札・交換札)と江戸っ子の気質
千社札の版元は浮世絵の版元と同じであることが多く、浮世絵で培った技術を用いて「錦絵」と同じような豪華な千社札(交換札)を作りました。版元の副業のような意味合いもあったかもしれません。江戸庶民は信仰のための千社札に、自身の見得と意地をかけて粋や洒落を盛り込み、名前や屋号や住所の他に、江戸っ子気質の競い合いや負けん気の強さも相まり、多色刷りの豪華さや、贔屓の役者や力士、美人画などで華やかさ、図柄の面白さ、構図の珍しさを求め、文字も江戸文字(籠文字・寄席文字)を用いて魅力的に仕上げました。個々の意匠を凝らしたオリジナル千社札を作るという趣味の要素や洒落っ気を持った江戸っ子の遊び文化の意味合いが強くなりました。
千社札蓮と納札会の始まり
多くの江戸庶民がオリジナル千社札を持つようになり、主に職人衆や芸者衆などの粋筋が御贔屓の方々に渡し、現在の名刺の役割を果たし、互いの千社札を交換し交流をもつようになると、交換仲間同士で集まるようになり、その集まりを「千社札蓮」「蓮」と呼び、江戸の有名な料亭の座敷を借り切って、加盟している人が集まり千社札を交換する会が催されるようになりました。納札交換会すなわち納札会(大寄合)です。同好の士のサロン的な意味合いがあります。浮世絵のように販売目的で作られたものでなく、個人が交換するために刷った為、数量が少なく貴重なコレクターアイテムとして収集の対象となっています。
町火消と納札(千社札)
江戸時代の江戸町火消達の間で作られた千社札は現代にも通じるものです。非常に細かい文字や纏の図柄が繊細に表現されています。各組の名前(通り名)等も記されています。千社札は多く刷られていない為、全ての札が揃っているものは、大変貴重とされています。コレクターの方が各組の千社札を揃え屏風に表装したものがあったりいたします。
江戸の職人たちの間で同業者組合「講」が盛んに結成されました。同業者間の親睦や利益確保のためだけでなく、職業神への信仰も深める為、千社札もその一環として活用されました。江戸の町火消の多くは、鳶職や大工などの職人で構成されていました。彼らは日頃から高い場所で作業することが多く、遠くに見える高い山の大山に特別な感情を抱いていました。大山の別名である「雨降山」と山頂に祀られている石尊大権現は、水や石との縁起を担ぐ彼らにとって重要で、「雨降山」は火事を防ぐ水の神、「石尊大権現」は火を鎮める石の神として信仰されたと考えられている。大山信仰とは大山は古くから雨乞いや五穀豊穣の神として信仰されてきました。特に「雨降り山」と呼ばれ山頂に祀られている石尊大権現(阿夫利神社)と中腹の大山寺が信仰の中心でした。大山詣の特徴として、「納め太刀」という源頼朝が武運長久を祈願して大山寺に太刀を奉納したという故事に由来し、大山講の一行は木太刀を担いで奉納する習慣がありました。町火消の職業神として水や石にご利益を求める信仰と町火消の「粋」が結びつき、納め太刀の大きさを競い合うようになり、中には7メートルに達するものもあったようです。
